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- みんなで、忍者の携帯食であった『兵糧丸』を作ってタイムスリップ!!!イベント告知
こんにちは~、今日は甲賀地方スッゴク五月晴れの良いお天気です。でも、目前に梅雨入りの声が聞こえてきそうです。梅雨に入ると長いので、今のうちにお布団を干したり、冬物の大きな洗濯物もして、いつ梅雨入り宣言されても良い体制を創っておきたいものですね。
そして、今夜(平成28年5月31日)は、火星が地球に再接近するそうで、日暮れ時に南東の空を見れば大きく輝いた星が見えるということです。楽しみにしてます。
甲賀は、昔から「くすりの町 こうか」、「忍者の町 こうか」と言われております。
「くすりの町 こうか」(薬僧からでた説)とは、
昔から甲賀売薬が盛んで、甲賀売薬の起源は①薬僧から出たとする説と②甲賀忍者の発明とする説の二説 が伝えられています。
薬僧とは、長享の乱(1487年)に敗れた木村宗成は甲南町の磯尾に逃れ、多賀明神の修験(山伏)となり、神札配布を始めた。
現在の水口町飯道山を修験道場として、甲南町磯尾、竜法師、塩野などを拠点に山伏村を育んだといわれている。
甲賀の薬僧は多賀坊と朝熊坊(あさまぼう)の二つがあり、いずれも元は武士だった。山伏姿で全国巡回して神札を配り加持祈祷を行い、多賀坊(本拠は磯尾)は多賀大社のお蔭だと説き「神教はら薬」を与え、また、朝熊坊(あさまぼう)(本拠は竜法師)は明宝院の祈祷札と「朝熊の万金丹」を持って全国を巡り信仰を広めたのが山伏だといわれている。
売薬の方法は行商であるが、得意預けの記録があった。
甲賀では、江戸時代の末期(1847年)甲賀町滝に生まれた渡邉詮吾が19才(1866年)で売薬を志し、単身で岡山へ行き「テリアカ」を伝授してくる。
「テリアカ」(過食・飲み過ぎの妙薬、きつけ・腹痛・食あたり)の処方を持ち帰り売薬製法を教え、組合を設立し、企業化の基礎を確立した人である。「先用後利」の先駆者でもある。
「忍者の町 こうか」(甲賀忍者の発明とする説)とは、
山岳修行を積んだ山伏は、忍者であったといわれている。
忍術伝書である「萬川集海」(ばんせんしゅうかい)(甲賀と伊賀の集大成)の中には火薬や忍薬として、飢渇丸・水渇丸・眠薬・眠気を覚ます薬・アホウ薬等、さらにさまざまな救急薬の作り方が記されている。
現在の忍術屋敷(竜法師)は、望月本実家といい、戦後脚光を浴び甲賀武士の中でも望月氏とその邸宅は、甲賀流忍術と甲賀売薬との関係が伺われる。
その後、配札禁止令(明治17年)が公布され、甲賀の売薬業は行商による配置販売へと切り替わった。
全国各地に薬に関する資料館・博物館等ありますが、忍者の携帯食としていた「兵糧丸づくり」が体験できるのはここの「くすり学習館」だけなので、是非一度お越しください。
甲賀市「くすり学習館」
〒 520-3431 滋賀県甲賀市甲賀町大原中 898-1
℡:0748-88-8110
丸薬つくりチラシ(新)