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- 甲賀市 薬業の歴史 ②イベント告知
こんにちは、今日は9月18日、雲ひとつない快晴で~す。数日前から少し秋めいてきたかと思えば、9月15日~16日にかけて台風18号の襲来でした。すごい雨風で近畿、東海、関東、東北を襲いました。先月(8月30日)に気象庁が命の危険が差し迫り、命を守るための警報「特別警戒警報」という「警報」の発表基準をはるかに超える豪雨や地震による大津波等が予想をされる場合に「特別警報」を発表し最大限の警戒を呼びかけるというように伝えられた矢先でした。
朝、5時15分頃近くの防災放送からけたたましくサイレンがなり「ただいま、『特別大雨警報』が発令されました。ただちに自治体の指示に従い身を守る行動をとってください」と放送されました。しかし、そう言われても、どのように対処すればよいのか私自身、頭がパニクリました。私たちの近辺では何事もなかったのでよかったですが、このようにどうしたらよいのか、わからなかった自分にダメだなぁと思いました。今後はこのような事がないようにしなくてはと反省しています。
各地で甚大な被害に遭われたみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。
それでは、甲賀市の薬業の歴史第2弾、明治に入ってからをお伝えしましょう。
明治時代
明治に入ると、維新の名の下、伝統ある甲賀の売薬業にも変革の波が押し寄せました。
明治の新政府は、売薬の中には有名無実のものがあり、民をあざむき高利をむさぼる傾向にあるなどの理由を揚げ、売薬の新しい方向性を見出すためとして、政府は明治3年(1870)に売薬取締規則を発令。これを皮切りに、売薬業に対して次のような規約や制約を打ち出しました。
明治10年に売薬税を制度化した売薬規則を、同16年に売薬印紙税規則を実施。これらは民間の不良薬を追及する一方、近代的な医薬・保健制度の確立を目指したものといわれていますが、財政収入を少しでも増やしたいという意向もありました。また、明治17年には配札禁止令が公布され、甲賀の売薬業は行商による配置販売へと切換えられることになりました。
●甲賀売薬業者の活動
江戸時代までの甲賀の売薬業は甲南町の磯尾、竜法師などが中心でしたが、江戸末期から明治にかけて、同町の野尻、池田、さらに甲賀町の滝、大原中の方面へと広がっていきました。同業者が増えるにつれ、行商区域も近畿一円、愛知、静岡、岐阜へと拡大していきました。
こうした状況の中、甲賀町滝の売薬業者たちは、明治16年に売薬鑑札下付願を提出、許可を得て配置売薬という形態をとるなど、新たな展開を求めていきました。
◆印紙税反対運動
配置売薬業は、得意先の家庭に薬を配置した翌年に、服用した薬の代金のみ受け取り、未開封の薬は持ち帰る形式になっています。
ところが売薬印紙税規則では未開封の薬袋に貼られた印紙分(定価の一割)は、業者の全額負担とされていました。こうした点の改善を求め、滋賀はもとより、富山・奈良などの配置売薬業者が一丸となり、明治16年から三年間にわたって反対運動が繰り広げられました。その結果、政府は明治19年に売薬印紙税交換規則を公布。配置先で売れ残り持ち帰って薬の袋に貼られた印紙は、新しいものと交換することになりましたが、業者たちは印紙税規則自体の廃止を求め、大正時代末期まで運動を続けました。
◆売薬神農会設立
売薬業者の増加と行商区域の拡大に伴って、甲賀の売薬業は盛況を迎える反面、乱売などの弊害も生まれてきました。こうした状況下、当時、甲賀売薬の発展に尽力していた甲賀町滝出身の渡辺詮吾は、油日、大原、佐山、寺庄、宮の五ヵ村の同業者に呼び掛け、明治25年に売薬神農会を設立。ほぼ同時期に、竜池村の売薬業者を中心とした甲賀売薬組合も設立されました。甲賀の売薬業者たちは組織化することで、自ら弊害を改善し、業界全体の発展を図ったのです。
◆売薬会社の設立
売薬業が著しく発展していた油日村では、売薬会社の設立が相次ぎました。明治32年に渡辺詮吾らが滝に近江売薬株式会社を設立。
これを皮切りに、明治35年には上野に湖東売薬株式会社が、同45年には田堵野に神農売薬株式会社が設立されました。なお、同時期、近隣の大原村でも大原製剤合資会社が設立されました。
次回は、大正時代をお伝えしましょう。