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- 甲賀市 薬業の歴史 ① イベント告知
ちょっと前までは、すっごく暑くてどうなるのかと思いきや、9月に入ったら朝晩がすごく凌ぎやすくなってきました。日中はまだまだ暑いけれど、ああ、秋だなって少し思えるようになりました。
先日、9月8日に7年後の2020年オリンピック・パラリンピックが東京招致に決定いたしました。プレゼンテーションで一生懸命心を込めてお話された皆さんに感動しました。それから連日テレビ・新聞ではオリンピックの話ばかりです。
これによって日本全体の景気が回復すれば、なおいいんだけど………、期待してま~す。
それでは、甲賀市の薬業の歴史を少しずつお伝えしましょう。まずは、
甲賀売薬の起源(~江戸時代)
甲賀売薬の起源は、①薬僧から出たとする説、②甲賀忍者の発明とする説の二説が伝えられています。
●多賀坊・朝熊坊による配札
中世の頃、甲賀郡には天台宗の密教系文化が深く根を下ろし、飯道山を修験道場として、磯尾、竜法師、塩野など飯道山東麓の山伏村を育んだといわれています。
甲賀の薬僧は多賀坊と朝熊坊の二つの系統に分けられますが、いずれも元は武士であり、かつての山伏村を本拠としています。
多賀坊の本拠は磯尾で、彼らは多賀神社の不動院に属し、多賀社や不動院の神札を持って、山伏姿で全国を巡回して多賀信仰を説き、加持祈祷を行い、廻国行脚の土産として、多賀大社の神教によって製したという『神教はら薬』を与えたとされています。また、朝熊坊の本拠は竜法師で、彼らは伊勢国朝熊嶽明宝院(明王院とも称する)に属し、明宝院の祈祷札と『朝熊の万金丹』を持って全国を巡りながら朝熊信仰を広めた山伏でした。
『多賀神社史』には、彼らのような坊人たちによる配札の起源は室町時代とあり、甲賀売薬の起源もこれと同じ頃と推察されます。
また、配札の全盛期は江戸後期の文化文政天保の頃で、当時は山岳修行者の山伏としてより、民間の祈祷師としての性格が強くなっていたようです。
●『萬川集海』と忍者の薬
今日に伝わる甲賀忍者は、山岳修行の鍛錬に徹した山伏たちのもう一つの姿であったろうといわれています。甲賀町田堵野大原家には忍術の伝書『萬川集海』22巻(甲賀町文化財指定)が伝わっています。この伝書の中には忍薬として、飢渇丸・水渇丸のほか、敵を眠らせる薬、眠気を覚ます薬、敵を痴呆状態に陥れる薬、さらに、さまざまな救急薬の処方が記されています。
また、朝熊坊の中で本実坊を名乗る望月本実家は、戦後「忍者屋敷」として脚光を浴び、甲賀武士の中でも、望月氏とその邸宅は、甲賀流忍術と甲賀売薬との関係を探るものとされています。
まず、第1弾はこれくらいで、次回は明治に入ってからをお伝えします。