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- 甲賀市 薬業の歴史 ③
おはようございます。今日は9月26日(木)、今朝は昨日と打って変わってすっごく涼しいというより風が強くて寒いくらいでした。昔の人はよく言ったもので「暑さ寒さも彼岸まで」、全くそのとおりと思いました。これから野山の木々は色づき、日に日に秋らしくなってくると思います。また、秋の薬草もいっぱい見られることと思います。凌ぎやすい季節となりますのでハイキング等にお出かけいただいたときに、秋の薬草を見つけてください。(8月上旬に〈薬草について〉「秋の身近な薬草の紹介」でブログに載せておりますので機会があれば見てください)
それでは、『甲賀市 薬業の歴史』第3弾、大正時代に入ってからをお伝えしましょう。
大正時代
大正に入ると、衛生思想の向上に伴い、軽症の場合は自己診断で適薬を選ぶ人々が増えたこと、業者が内容の精選、調整の改善に努力したことなどによって、甲賀の売薬は簡易治療剤としての需要を一層増大しました。
大正3年(1914)には売薬法が発布され、売薬製造業者は売薬営業者とされ、薬剤師または薬剤の使用者だけが、製造販売を許可されました。このように生産と販売が明確に分離されたことで、株式会社組織による製造業者が続出しましたが、売薬業者は既得権によって、その者一代に限り営業を認められました。また、大正15年には売薬税法廃止の法律が施行され、売薬営業税は一般営業税となり、さらに業界待望の売薬印紙税の廃止が実現しました。
●甲賀売薬業者の活動
◆甲賀郡売薬同業組合の創設
時代の変化に対応するため、大正12年に売薬神農会と甲賀売薬組合は合併して『甲賀郡売薬同業組合』を創設。貿易の振興、粗製濫造の防止など、薬業の体質改善を図り、さらに景気の変動にも対処できるように努力しました。こうして甲賀の売薬は郷土伝統産業の花形として発展を遂げたのです。
◆第一次世界大戦による好況
ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦への参戦と同時に、日本の薬品市場は沸騰。戦争と直接関係のない和漢薬類の値まで昂騰し、売薬業界にも好況をもたらしました。これをきっかけに、甲賀には製薬会社がいくつも設立されました。
次回は、昭和時代(~昭和50年)をお伝えしましょう。
- 甲賀市 薬業の歴史 ②
こんにちは、今日は9月18日、雲ひとつない快晴で~す。数日前から少し秋めいてきたかと思えば、9月15日~16日にかけて台風18号の襲来でした。すごい雨風で近畿、東海、関東、東北を襲いました。先月(8月30日)に気象庁が命の危険が差し迫り、命を守るための警報「特別警戒警報」という「警報」の発表基準をはるかに超える豪雨や地震による大津波等が予想をされる場合に「特別警報」を発表し最大限の警戒を呼びかけるというように伝えられた矢先でした。
朝、5時15分頃近くの防災放送からけたたましくサイレンがなり「ただいま、『特別大雨警報』が発令されました。ただちに自治体の指示に従い身を守る行動をとってください」と放送されました。しかし、そう言われても、どのように対処すればよいのか私自身、頭がパニクリました。私たちの近辺では何事もなかったのでよかったですが、このようにどうしたらよいのか、わからなかった自分にダメだなぁと思いました。今後はこのような事がないようにしなくてはと反省しています。
各地で甚大な被害に遭われたみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。
それでは、甲賀市の薬業の歴史第2弾、明治に入ってからをお伝えしましょう。
明治時代
明治に入ると、維新の名の下、伝統ある甲賀の売薬業にも変革の波が押し寄せました。
明治の新政府は、売薬の中には有名無実のものがあり、民をあざむき高利をむさぼる傾向にあるなどの理由を揚げ、売薬の新しい方向性を見出すためとして、政府は明治3年(1870)に売薬取締規則を発令。これを皮切りに、売薬業に対して次のような規約や制約を打ち出しました。
明治10年に売薬税を制度化した売薬規則を、同16年に売薬印紙税規則を実施。これらは民間の不良薬を追及する一方、近代的な医薬・保健制度の確立を目指したものといわれていますが、財政収入を少しでも増やしたいという意向もありました。また、明治17年には配札禁止令が公布され、甲賀の売薬業は行商による配置販売へと切換えられることになりました。
●甲賀売薬業者の活動
江戸時代までの甲賀の売薬業は甲南町の磯尾、竜法師などが中心でしたが、江戸末期から明治にかけて、同町の野尻、池田、さらに甲賀町の滝、大原中の方面へと広がっていきました。同業者が増えるにつれ、行商区域も近畿一円、愛知、静岡、岐阜へと拡大していきました。
こうした状況の中、甲賀町滝の売薬業者たちは、明治16年に売薬鑑札下付願を提出、許可を得て配置売薬という形態をとるなど、新たな展開を求めていきました。
◆印紙税反対運動
配置売薬業は、得意先の家庭に薬を配置した翌年に、服用した薬の代金のみ受け取り、未開封の薬は持ち帰る形式になっています。
ところが売薬印紙税規則では未開封の薬袋に貼られた印紙分(定価の一割)は、業者の全額負担とされていました。こうした点の改善を求め、滋賀はもとより、富山・奈良などの配置売薬業者が一丸となり、明治16年から三年間にわたって反対運動が繰り広げられました。その結果、政府は明治19年に売薬印紙税交換規則を公布。配置先で売れ残り持ち帰って薬の袋に貼られた印紙は、新しいものと交換することになりましたが、業者たちは印紙税規則自体の廃止を求め、大正時代末期まで運動を続けました。
◆売薬神農会設立
売薬業者の増加と行商区域の拡大に伴って、甲賀の売薬業は盛況を迎える反面、乱売などの弊害も生まれてきました。こうした状況下、当時、甲賀売薬の発展に尽力していた甲賀町滝出身の渡辺詮吾は、油日、大原、佐山、寺庄、宮の五ヵ村の同業者に呼び掛け、明治25年に売薬神農会を設立。ほぼ同時期に、竜池村の売薬業者を中心とした甲賀売薬組合も設立されました。甲賀の売薬業者たちは組織化することで、自ら弊害を改善し、業界全体の発展を図ったのです。
◆売薬会社の設立
売薬業が著しく発展していた油日村では、売薬会社の設立が相次ぎました。明治32年に渡辺詮吾らが滝に近江売薬株式会社を設立。
これを皮切りに、明治35年には上野に湖東売薬株式会社が、同45年には田堵野に神農売薬株式会社が設立されました。なお、同時期、近隣の大原村でも大原製剤合資会社が設立されました。
次回は、大正時代をお伝えしましょう。
- 甲賀市 薬業の歴史 ①
ちょっと前までは、すっごく暑くてどうなるのかと思いきや、9月に入ったら朝晩がすごく凌ぎやすくなってきました。日中はまだまだ暑いけれど、ああ、秋だなって少し思えるようになりました。
先日、9月8日に7年後の2020年オリンピック・パラリンピックが東京招致に決定いたしました。プレゼンテーションで一生懸命心を込めてお話された皆さんに感動しました。それから連日テレビ・新聞ではオリンピックの話ばかりです。
これによって日本全体の景気が回復すれば、なおいいんだけど………、期待してま~す。
それでは、甲賀市の薬業の歴史を少しずつお伝えしましょう。まずは、
甲賀売薬の起源(~江戸時代)
甲賀売薬の起源は、①薬僧から出たとする説、②甲賀忍者の発明とする説の二説が伝えられています。
●多賀坊・朝熊坊による配札
中世の頃、甲賀郡には天台宗の密教系文化が深く根を下ろし、飯道山を修験道場として、磯尾、竜法師、塩野など飯道山東麓の山伏村を育んだといわれています。
甲賀の薬僧は多賀坊と朝熊坊の二つの系統に分けられますが、いずれも元は武士であり、かつての山伏村を本拠としています。
多賀坊の本拠は磯尾で、彼らは多賀神社の不動院に属し、多賀社や不動院の神札を持って、山伏姿で全国を巡回して多賀信仰を説き、加持祈祷を行い、廻国行脚の土産として、多賀大社の神教によって製したという『神教はら薬』を与えたとされています。また、朝熊坊の本拠は竜法師で、彼らは伊勢国朝熊嶽明宝院(明王院とも称する)に属し、明宝院の祈祷札と『朝熊の万金丹』を持って全国を巡りながら朝熊信仰を広めた山伏でした。
『多賀神社史』には、彼らのような坊人たちによる配札の起源は室町時代とあり、甲賀売薬の起源もこれと同じ頃と推察されます。
また、配札の全盛期は江戸後期の文化文政天保の頃で、当時は山岳修行者の山伏としてより、民間の祈祷師としての性格が強くなっていたようです。
●『萬川集海』と忍者の薬
今日に伝わる甲賀忍者は、山岳修行の鍛錬に徹した山伏たちのもう一つの姿であったろうといわれています。甲賀町田堵野大原家には忍術の伝書『萬川集海』22巻(甲賀町文化財指定)が伝わっています。この伝書の中には忍薬として、飢渇丸・水渇丸のほか、敵を眠らせる薬、眠気を覚ます薬、敵を痴呆状態に陥れる薬、さらに、さまざまな救急薬の処方が記されています。
また、朝熊坊の中で本実坊を名乗る望月本実家は、戦後「忍者屋敷」として脚光を浴び、甲賀武士の中でも、望月氏とその邸宅は、甲賀流忍術と甲賀売薬との関係を探るものとされています。
まず、第1弾はこれくらいで、次回は明治に入ってからをお伝えします。
- 油日児童クラブの皆さんが兵糧丸づくりに挑戦してくれましたよ!!
平成25年8月28日(水)、4~5日前の暑さとは少し和らぎ、油日児童クラブ1~3年生と先生の29名が「くすり学習館」に来られ、昔忍者が携帯食として持ち歩いていたという「兵糧丸」をみんなで楽しく作っていただきました。
見学時も説明にしっかり耳を傾け、質問に対しても大きな声で答えてくれるのですごくうれしかったです。
また、兵糧丸作りも児童たちは興味しんしんで、すごく楽しそうに薬研(やげん)を使って材料を粉にし、丸める時も大きかったり小さかったりと、それぞれが個性をだして楽しく丸めていました。
そして、出来上がった兵糧丸を蒸して、試食した時も「おいしい、おいしい、もっと食べたい」と、アッという間に完食でした。
「くすり学習館」の近くの児童クラブなので、その日の夕方に各児童からお礼状をいただきました。
数点紹介しましょう。
◎「きょうは、いろいろなたいけんをさせてくださってありがとうございました。とても楽しかったです。むかしはこうやってくすりを作っていたんだということがよくわかりました。
丸薬づくりでは、少しむずかしかったけれど、すっごく楽しかったよ。見た目は少しあれだったけど、とーってもおいしかったです。」3年生
◎「今日はいろいろとありがとうございました。いろいろなたいけんがべん強になりました。わたしは3年生の社会見学でいったことがありますが、丸薬づくりが大好きなので行けてとってもよかったです。甲賀市は薬とにんじゃがゆうめいだからすごいと思いました。なぜかというと、ゆうめいなことがあるとそのちいきがもっとゆうめいになると思うので、とてもよいと思いました」3年生
◎「今日はありがとうございました。がんやくを作っておいしかったです。見学もできてよかったです。またよろしくおねがいします。」2年生
◎「きょうは、くすりをつくらしてもらってありがとうございました」1年生
◎「今日一日ありがとうございました。にんじゃがたべていたたべものを手でつくりました。さいしょはおいしいかわからなかったけど、たべたらすごくおいしかったです。」2年生
◎「ぼくは今日、くすり学習館に行きました。学どうから歩きました。休けいは1回でした。そしてくすり学習館についてあいさつをしました。中はとてもすずしかったです。むかしのいろんな道具がありました。つぎに薬を作りました。作る前に手をきれいに洗いました。まずざいりょうを細長くしてつぎにカットして、それを丸めてさいしゅうてきに、むして食べました。」2年生
まだまだいっぱいお礼状をいただきましたが、みんな「くすり学習館」に行ってよかったと言ってもらえたのですごくうれしいです。また、来てくださいね。お待ちいたしております。
- 秋の身近な薬草の紹介 ⑩
暦の上では8月7日は立秋で~す。 エ~ッ、この暑さはなんなの?きょうは平成25年8月11日だけど連日、日本列島が猛暑・猛暑・猛暑で茹だっていま~す。昨日も全国的に晴れて厳しい暑さとなり、甲府市・四万十市では40.7度を観測し、東北から九州まで広い範囲で40度近い気温となり今夏最多となったそうです。この暑さはまだ1週間ぐらい続くそうですよ。これに伴い熱中症で病院搬送が相次ぎ、たいへんな事ですね。気象庁は「高温注意情報」を発表し、小まめな水分補給や冷房の適切な使用で熱中症に注意するよう呼び掛けています。 ~みなさん、くれぐれも注意してくださいね~
それでは、「秋の身近な薬草の紹介」⑩を紹介しましょう。
◇アケビ ◇(アケビ科)
◎自生、特徴
各地に自生する蔓性落葉樹です。4月頃に淡紫色の花をつけます。秋に果実が成熟してくると開裂します。小葉が5枚あるのがアケビとゴヨウアケビで、3枚あるものがミツバアケビですが、ゴヨウアケビとミツバアケビの花の形質は似ています。
◎薬効部位と薬効
蔓性の茎を木通(もくつう)として主に利尿剤(体内の水の巡りをよくする生薬)として用いていますが、中国の木通とは基源植物を異にします。新芽は湯がき食用とします。また果皮も同様に食用にできます。
◎名前の由来、その他
果実が秋に開裂することから開実(あけみ)とされました。また木通は体内の水の巡りを通じさせることよりきているといわれています。
◇カラスウリ ◇(ウリ科)
◎自生、特徴
雌雄異株なので果実のならない株もあります。林の縁や藪など他の木につたって伸びる蔓性の多年草で、8~9月の夕方に白い花を開花させるが、朝までにしぼみます。全草に細毛があります。秋に熟す果実は特徴的です。
◎薬用部位と薬効
根を秋に掘り、乾燥したものが生薬の王瓜根(おうかこん)です。漢方薬では黄疸や出血、また利尿、催乳効果を期待して用いられます。
◎名前の由来、その他
食用とならない瓜ということでカラスウリとなったそうです。
◇カワラヨモギ ◇(キク科)
◎自生、特徴
河原や砂地などの場所を好み自生します。9月頃の花穂をつけた時期には1mくらいになります。根部から多数の茎が、やや下の方は木質化して生育します。晩秋には地下部は枯れ、若苗が白身を帯びた緑色で越冬します。ヨモギと異なり、糸状葉です。
◎薬用部位と薬効
9月頃花穂を集め乾燥したものが生薬の茵蔯蒿(いんちんこう)です。黄疸に有効な漢方処方に配合されます。含有されているクマリンは胆管や血管を拡張する効果があります。
◎名前の由来、その他
主として河原に生育するヨモギというところからきています。
◇シソ ◇(シソ科)
◎自生、特徴
古くに日本へ渡来したものと考えられ、野性化したものも方々で見られますが栽培もされています。全草に特有の香りがあり、判別しやすいです。四角い茎の上部で分化し、多くの葉をつけます。葉は長柄があり、毛はほとんどなく、周囲はノコギリ状に切れ込んでいます(鋸歯があります)。初秋に頂端や茎端に紅紫から白い花を咲かせます。アントシアン系色素の有無で青ジソ、赤ジソに分かれます。
◎薬用部位と薬効
薬用には赤ジソの葉を用います。種子を蘇子(そし)といいます。発汗、解熱、鎮痛あるいは鎮咳効果を期待して用いられます。また、漢方薬では重要な気剤で、気の巡りをよくする生薬の一つです。
◎名前の由来、その他
漢名紫蘇(zizu)の転訛。シソには気を巡らせ蘇生する力があるといわれ、蘇の名前がついているとされます。
◇ワレモコウ ◇(バラ科)
◎自生、特徴
8~10月頃、枝先に小さな暗い赤色の花弁のない花をつけます。地下に根茎を有し、多年草です。葉は根から出るものも、茎から出るものも多くは5対ぐらいで長さ3~5cmです。
◎薬用部位と薬効
根茎を乾燥したものが生薬の地楡(ちゆ)です。漢方薬では止血剤として用いられます。
◎名前の由来、その他
日本名は吾木香、我毛香、吾亦紅などとされますがよくわかりません。新芽や若葉は食用とされることもあります。